東京高等裁判所 昭和56年(う)1344号 判決
所論に鑑み、記録及び証拠物を調査し、本件各犯行及びその前後における被告人の行動を検討すると、次の事実が認められる。
被告人は、昭和五五年一二月二七日、自己の経営する鉄筋工事の会社の仕事納めのため、午前一〇時ころ作業を打切り、従業員に酒、ビールを振舞うとともに、自らもウイスキーの水割を飲むなどしていたが、午後四時五分ころ、法令に定める量以上のアルコールを身体に保有する酒気帯びの状態で、普通乗用自動車を運転して原判示道路に至つた(原判示第一の事実)。
同所において、折柄道路左側端に停車していた渡辺留蔵運転の普通乗用自動車の右側を通過した際、誤つて同自動車の右前部に自車を接触させたので、直ちに後退運転し、下車して、被告人の車両番号を控えていた右渡辺の傍に歩み寄り、同人から「相当スピードが出ていましたね」と話しかけられるや、矢庭に同人からメモ用紙とパーカー製ボールペンを取上げ、「俺が書いてやる」と言いながら右メモ用紙に「根本晃」と自己の氏名を記載したうえ、「こんなもん」と言つて右ボールペンを付近の民家の屋根の上に放り投げ、さらに、右渡辺の車両の損傷状況を見て、「大したことない」とか、「こんなボロ車、俺の車の方が高級だ」などと放言し、そのフエンダーを足蹴にして凹損させたり、制止する渡辺に対し、「何だやる気か。やろうじやないか」「勝てると思うなら掛つて来い」と喧曄を挑んだりして狼藉に及んだため、同日午後四時二〇分、同人からの一一〇番の通報により臨場した警察官に器物毀棄の現行犯人として逮捕された。その際も、被告人は、路上に仰向けに寝転ぶなどして暴れたので、柔道帯で手首、足首を縛られてパトロールカーに収容される状態であつた。
かくして、被告人は、小平警察署に引致されて第一留置場に留置されたが、午後四時四〇分から四七分ころにかけて、警察官数名から交々飲酒検知に応ずるよう説得されたにもかかわらず、呼気採取用風船を二回に亘り破り棄て、さらに、口元に差出されたアルコール感知器を奪い取つてこれを二つに折損するなどして検知を拒否した。
止むなく、中澤理警部外四名の警察官及び医師一名は、同日午後一〇時四七分、就眠中の被告人を起こして二階の保護房に連行し、東京地方裁判所八王子支部裁判官の発付した身体検査令状及び鑑定処分許可状を示して採血しようとしたところ、被告人は「令状を見せろ」と言つてこれを手に取り、暫時注視した後、こんな紙一枚で血を採られるのかと立腹し、両令状を一括して両手で二回引裂いて毀棄した(原判示第二の事実)。
そして、同日午後一〇時四九分ころ医師により採取された被告人の血液約三ミリリツトルを、警視庁科学捜査研究所で鑑定した結果、アルコールの含有量は血液一ミリリツトル中に一・〇四ミリグラムであつた。
以上の事実を認めることができる。
所論は、被告人は慢性アルコール中毒で従前から奇矯な言動が多かつたうえ、本件犯行当時は、年末で忘年会が重なり、連日の飲酒と疲労が重なつて最悪の状態にあり、当日の多量の飲酒によつて病的酩酊に陥つたものであると主張する。
原審公判廷における証人須藤廣子及び被告人の各供述に当審で取調べた前記諸治証人の供述及び前掲意見書を併せ検討すると、被告人は、一六歳ころから飲酒を始め、二〇歳ころからは毎日ウイスキー水割を三、四杯から多くてボトル半量程度飲むようになり、昭和五五年一一月下旬、商用で中国に旅行して帰国してからは、朝から酒浸りの生活を送るようになつたこと、昭和五四年一二月と同五五年八月の二回、突然頭髪を剃らせて丸坊主となつたほか、俺は神様になつたので人の心が読める、あまり読め過ぎるのでサングラスをかけると言い出すなど、異様な言動を示し、また、手指の粗大な振戦も見られるようになつたことが認められる。
諸治証人は、右のような状況から、被告人は少なくとも本件発生の半年前より慢性アルコール中毒状態にあり、ことに昭和五五年一二月に入つてから本件犯行の直前まで慢性アルコール中毒にしばしば見られる振戦せん妄状態が出没していたと推測されると言う。そして、同証人によれば、本件犯行当時における被告人の言動は普段の酩酊状態からかなり逸脱した状態と思われ、病的酩酊の存在を疑わせるが、その前から慢性アルコール中毒に伴う振戦せん妄状態が出没していたことからすれば、病的酩酊であつたとは断定し難いというのである。
たしかに、頭髪の剃去とか、神様になつたとの発言に見られる被告人の奇矯な言動は、振戦せん妄状態として説明され得るかも知れないが、これらと本件犯行当時における被告人の行動とは直ちに同列のものとは考えられない。犯行時における被告人の行動は、前記認定のとおり粗暴かつ攻撃的ではあるが相手の言動とよく対応しており、幻覚や見当識障害などは認められない。また、振戦せん妄状態は、もともとアルコールが切れた際の禁断症状と考えられていたところ、諸治証人によれば、最近の研究では、アルコール耐性の上昇に伴い、身体にアルコールを保有する状態でも発現し得ることが発見されたというのであるが、そうだとしても、身体中のアルコール保有量がある程度低下した場合のことであつて、本件各犯行当時のように、連日の飲酒により平素より多量のアルコールを身体に保有する状態で発現するものとは解し難い。以上のような諸点からすれば、本件各犯行が、慢性アルコール中毒に基づく振戦せん妄状態でなされたものとは認められない。
次に、諸治証人によれば、病的酩酊にはてんかん様の朦朧状態になるものとせん妄状態になるものとがあり、後者の場合には慢性アルコール中毒に伴つて出没するせん妄状態との判別が困難であるというのであるが、本件犯行当時幻覚や見当識障害が認められないことは前示のとおりである。そして、諸治証人及び前記意見書並びに同証人らが日本アルコール医学会の機関誌「アルコール研究と薬物依存」第一六巻第三号二七三頁以下に発表した「覚醒時過換気後無呼吸がアルコール機構に関与したと考えられるアルコール症の一症例」と題する研究論文(被告人の症例を論じたもの)によれば、被告人に対し、本件犯行当時の飲酒量とほぼ同量と見られるウイスキー三一〇ミリリツトルを飲酒させて行なつた飲酒試験においては、ウイスキー二二〇ミリリツトルを飲み終え、最後の九〇ミリリツトルに手をつけるころには血中アルコール濃度は二・〇ミリグラム・パー・ミリリツトル以上となつており、飲酒を終るまで概ね同様の状態で推移しているが、「テスト開始前の診察で知られた人格と異質な言動は出現せず、テスト終了後の診察においても記憶の欠損は認められず、また、身体的に軽度の運動失調がみられたに過ぎず、異常な酩酊状態はみられなかつた」し、(右論文二七六頁)、「臨床観察だけでなく、脳波所見からも飲酒試験でみられた本症例の酩酊は単純酩酊であつたといえる」(同二八二頁)結果となつている。
もとより、普段は単純酩酊状態となる人であつても、飲酒時の精神的、身体的条件によつては、病的酩酊に陥ることが考えられるとしても、本件の場合、右飲酒試験結果を覆し、病的酩酊と認めるに足りるほどの事情は認められない。前記意見書には、本件犯行当時の被告人の言動が普段の酩酊状態からかなり逸脱していること、事件直後の状態を断片的に思い出せるに過ぎないことを挙げて、病的酩酊とも想定されるとする記載も見られるが、被告人が本件犯行当時せん妄状態にあつたものとは認められず、また、原審で被告人側が証拠とすることに同意し、適法に取調べられた被告人の捜査官に対する供述調書においては、犯行当時の状況を比較的詳細に記憶していることに照らせば、その後における記憶喪失の供述も必ずしも全面的には信用できないから、意見書掲記の前記諸点はいずれも病的酩酊の決め手となり得るものではない。ちなみに、諸治証人の前記研究論文では、犯行当時は著明な見当識障害がなく、概括的記憶があることを指摘しており、病的酩酊であることを否定している。
以上のとおりであつて、本件犯行当時被告人が病的酩酊の状態にあつたとは解されない。